「先輩だったんですね、失礼しました。これから仲良くしてくれると嬉しいです」
可愛らしい見た目だから間違えてしまった。正直に頭を下げて謝ると、先輩はカラカラと笑って許してくれる。
「気にしないで! ボク、こんなんだからさ、よく間違われるんだ~。女の子って言われた事もあるよ! だから凜ちゃんが羨ましくて、思わず声かけちゃった」
『凜ちゃん』
そう呼ばれたのは、いつぶりだろう。昔はみんな『リンちゃん』って呼んでくれていた。それがいつの間にか『凜くん』になって、行き着いた先が『王子様』だ。
私はそんなんじゃないのに、お母さんが半ば強要していたのを覚えている。幼稚園の頃、先生が私を『リンちゃん』と呼ぶと、迎えに来たお母さんがヒステリックに騒ぎ立てたんだ。それを見て他の子は泣きだすし、園長先生は出てくるしで、幼いなりに自分は『凜くん』である事を求められているんだと感じていた。
そのせいなのか、見た目も中性的に育っている。
170㎝を超える身長、凹凸の少ない体、切れ長の目。
瀬戸先輩みたいに羨ましいと言ってもらえるのは、素直に嬉しい。それを否定するのは、贅沢なんだと分かっている。
それでも、『かっこいい』より『可愛い』と言われたい。私だって女子なんだから。
そんな思いをひた隠しにして、私は笑う。
「ありがとうございます。先輩は本当に可愛いし、十分気を付けてくださいね。今の時代、男子だからって油断はできませんから。何かあったら、気軽に相談してください。用心棒でも何でもしますよ」
力こぶを作りながら言うと、先輩は腕に手を伸ばした。ムニムニと触り、感嘆の声を上げる。
「すっごい! 女の子なのに筋肉がしっかり付いてる! ねね、筋トレとか教えて? ボクも筋肉付けたいんだ~。やっぱりプロテインかなぁ」
瀬戸先輩は私の横に付いて歩を進める。少し下にある顔は幼さを残すけど、喉仏はしっかり出ていて、どきりと心臓が鳴った。気恥ずかしくてさっと顔を背けると、先輩が覗き込んできた。
「ん? どうしたの凜ちゃん。なんだか顔が赤いけど……熱でもあるの?」
少し踵を上げて伸ばされた掌が、額に触れる。さらりと前髪を払うのは、節が目立つ細い指。ちょっとだけ冷たいそれは、また私の心臓をざわつかせた。
こんな感覚は初めてだ。何故だろう、先輩には自分とは違う、異性を意識させる何かがあった。見た目とは裏腹な色気、のようなものを感じてしまう。
男子とだって、普通に接してきた。部活の先輩とも、普段からじゃれ合っているのに。
(なんで……?)
自分の異変に戸惑う私は、周囲に不自然な空間が空いている事に、気付きもしていなかった。
先生が授業を始めても、みんな集中できないでいるようだった。先生もそれを感じているのか、どうでもいい雑学ばかり話している。 噂を信じるなら、リスクを背負う覚悟も必要。 きっと、みんなそれぞれに考えるところがあったんじゃないだろうか。 それは嘘でも、本当でも、間違いだった時に『裏切られた』なんて言わないことだと、私は思った。 先輩の噂には何か理由がある。 それが私の考えであって、もし噂が真実だったとしても、それは信じた私の責任だ。先輩を責める権利なんてないし、先輩が私に応える義務もない。 まだ先輩に会ってから2日しか経っていない。なのに、信じるだなんていう方がおかしい。自分でもそう思うのだから、前から先輩を知っている人から見ればバカみたいなのかもしれない。 だけど、私は信じたい。 何がそうさせるのか、その理由を探すことが、私の存在意義に繋がる気さえしている。 今まで他人に口答えをしたことも無い私が、何故、先輩の悪口に過剰に反応したのか。『王子様』を求められ、素直に従ってきた私が。 窓の外に見える広場を眺めながら、想うのは先輩のことばかり。(そういえば、お昼一緒にって言ってたのに、ダメになっちゃったな……) ちらりと机にかけた鞄に目をやると、胸が締め付けられるような感覚を覚える。まだ涼しいとはいえ、陽射しは徐々に強くなってきた。半日常温で置かれていたお弁当は、さすがに食べられないだろう。お母さんにも悪い事をしてしまった。 教壇に視線を戻すと、先生が思いっきり趣味に走った話を、楽し気に語っている。先生が理科教諭を目指した、そのきっかけだそうだ。「DNAというのは
私の演説じみた話が終わると、先生がひょっこり顔を出す。それは担任でもあり、理科の担当教諭でもある江崎先生だった。 そこでハッとして時計を見ると、既に5時間目の時間に突入している。「す、すみません! 私、無我夢中で……」 慌てて席へ戻ろうとすると、先生は手で制して優しく微笑んでくれた。「いや、聞き惚れたよ。私もこの年になるまで、いろんな噂に翻弄されてきた。オイルショックはみんな知っているよね?」 先生は周囲にも目を向け、話を続ける。「最近も、米不足や増税なんかが連日テレビで報道されている。それに紛れて芸能人のスキャンダル、政治家の汚職、いろんな噂を耳にするだろう。それが悪いとは言わない。僕はただ、自分の考えを持って、自分自身で判断してほしいと思っているんだ。いい噂も、悪い噂もね」 みんなの視線が集中する中で、先生は淡々と語る。「それは学校でも同じだよ。眞鍋さんや瀬戸くんの噂は、職員室でもよく耳にするんだ。だけど、僕の知っている眞鍋さんは、少なくとも噂とは違う。新堂さんを追いかけるのは、ほどほどがいいとは思うけどね」 冗談めかして笑う先生は、いつもより頼もしく見えた。「瀬戸くんについても、僕個人としては新堂さんに賛成かな。もちろん、それを強要するつもりもないし、もしかしたら噂の方が本当なのかもしれない。だけどね、噂を信じるのなら、それ相応のリスクも覚悟が必要だよ」 それを聞く生徒の態度は様々だ。 俯く人、憤慨する人、聞き入る人。 私はじっと先生を見つめていた。眞鍋さんも同様だ。「人の噂も七十五日というだろう? 結局、その程度のものなんだよ。それでも、ただの
視線を周囲に向けたまま、私は更に続ける。「眞鍋さんも、先輩の噂が本当だって、自信を持って言える? 現場を見たりしたの?」 それは眞鍋さんだけに対する問いじゃない。勝手気ままに、無責任に噂を広げる人に対しての問いだ。 眞鍋さんの噂には、多分嫉妬や被害妄想が含まれている。1年の頃はどうか知らないけど、少なくとも2年になってからは私にずっとくっついていたんだから。それでも噂がやむことはなかった。 そして、噂は女子だけじゃなく、男子からのものも多い。これって相手にされなかった憂さ晴らしなんじゃないだろうか。そう感じていた。 だから正直に言う。「私思うんだ。もし眞鍋さんの噂が本当だったとしても、それって男子側にも責任があるんじゃないかって。例えアプローチされたとしても、本当に彼女が大事なら、他に目は移らないんじゃないかな。私、浮気する奴って大っ嫌いなんだよね」 剣道で鍛えた声量は、廊下にも十分届いているはずだ。「女子も、自分が振られた腹いせに言ってるとしか思えない人もいるよ。どれが事実かなんて、私には分からない。ただ無責任に他人を陥れようとするのに腹が立ったんだ。眞鍋さんが私を思って言ってくれているのは分かってる。だから、先輩のことも少し思いやってくれると嬉しいな」 そっと眞鍋さんの手を取り、瞳を見つめる。「噂ってさ、結局は関係ない人が流すものなんだよ。私は『王子様』なんて呼ばれてるけど、そんなんじゃない。ただの女子高生だよ。眞鍋さんが慕ってくれるのは嬉しい。だけど、クラスメイトとして接してくれると、もっと嬉しい」 そう言うと、眞鍋さんは瞳を潤ませ、遂には泣き出してしまった。その頭を撫でながら、ふとした疑問を投げかける。「それにしても……私、先輩の噂
先輩にお礼と別れを告げて、教室へと急ぐ。時計を見ればもう13時目前だ。走れば午後の授業に間に合う。 そう思って息せき切って戻ってみれば、教室の前は妙な静けさに包まれていた。通り過ぎる人達も声を潜め、チラチラと室内を覗いている。 その意味はドアを開いて分かった。 いつもは騒がしい昼休み、その隅に俯いた眞鍋さんが座っている。クラスメイト達は遠巻きにして、こそこそと呟き合っていた。 私は自分の行動の迂闊さと、影響力の大きさを思い知る。ただ学内で『王子様』と呼ばれているだけで、自分の発言が誰かを傷つけるなんて思ってもみなかった。 顔を上げ、意を決すると、ゆっくり眞鍋さんの元に足を向ける。周囲からは小さなざわめきが起き、視線が集中するのを感じた。それを無視して眞鍋さんの元に辿り着いても、彼女は俯いたままだ。 教室はしんと静まり返り、廊下から好奇の視線を感じた。 私はじっと眞鍋さんを見下ろし、口を開く。「みんなにも聞いてほしい」 真鍋さんの肩がびくりと跳ねる。 その声は、自分でも驚くほど教室に響いた。 みんなの意識が集中しているのを感じて、大きく深呼吸をする。今までだって、注目を浴びることは多かったけど、この空気感はそれとは全く別のものだ。 興味、嫌悪、ひがみ、哀れみ。 いろんな感情の渦の中で、眞鍋さんは午前中を過ごしたのかと思うといたたまれない。その原因はほかでもない、私だ。 後悔はしていない。先輩を悪く言われて、腹が立ったのは紛れもない事実だもの。それでも、眞鍋さんに対して取っていい行動ではなかったと、今なら分かる。「
榊の腕を引っ張ってアイツから離れると、小声でまくし立てた。「てめぇ、俺のことアイツに言ってみろ、ただじゃおかねぇからな!」 恫喝する俺にも榊は動じず、意味ありげに笑う。嫌な予感と、むかつきが同時に襲ってくる。 こいつは俺がサボるたびに、なんやかんやと口を出してきた。担任もとうに見放しているのに、新任の正義感なのかちょっかいをかけてきやがる。「ん~? 俺のことって何? 実は、学校一の問題児ってやつ?」 この……分かってるくせに、アイツの方をチラチラ見ながらニヤけやがって。俺が女を殴れないって知ってるから余計に質が悪い。あまり騒ぐとアイツに聞こえるし、こいつホントどうしてやろうか。 唸りながら動けない俺に、榊は意外そうな顔をする。「……あれ、なんかいつもと違うね。そんなにあの子には知られたくないの? 問題児って言ったって、あなたの場合はタイミングが悪いだけでしょう。停学の理由だって、カツアゲしてたのは他の生徒で、あなたは被害に遭った子を庇っただけ。そこをあなたに敵意を持つ担任が見つけたから、これ幸いと停学にしたんだし。新堂さんは、ちゃんとわかってくれると思うわよ?」 懇切丁寧に説明する榊に、俺はイラ立ってくる。 そんなことは分かっているんだ。別に褒められたい訳でも、感謝されたい訳でもない。俺が誰かを助けるたびに事実は歪められ、ありもしない罪を着せられる。 そして話はデカくなり、俺は意味もなく嫌がらせを受ける羽目になるんだ。 もうそれにも慣れた。 仲が良かった奴も離れて行って、今じゃ良からぬ輩の仲間入り。教室でも、いないものとして扱われる。休もうが出席しようが、成績は変わらず最下位だ。 親にも泣かれた。
先輩は膝の上で組んだ両手に力を込め、顔を上げる。その表情は、今までとどこか違っていた。「凜ちゃん……!」 そう言いかけた時、扉の開く音が響く。引きずるようなスリッパの音で、生徒ではないと分かった。その音は徐々に近付いてきて、サッとカーテンが開かれる。「ああ、起きたんだね新堂さん。ちょっと野次馬から事情を聴いてきたけど、頑張ったんだね。眞鍋さんの事は、教師の間でも問題視されてて……ん? 瀬戸くん、なんだか大人しいね。いつもの口汚さは……」「わーっ! ちょっと待て! あ、いや待って! 先生、ちょっとこっち!」 先輩は何故か慌てて先生の手を引いて、カーテンの向こうに消えていった。その様子に親しみを感じ、胸がチクリと痛む。(なんだろう……まただ) この感じは、先輩に出会って何度か経験している。でも、それはどれも違う場面で起きていた。 最初は先輩に初めて会った時。どこか他の人と違うものを感じて、心がざわついた。 昨日、昼休みに会った時も、可愛いと言ってくれたことが嬉しかったのを覚えている。 そして今日の早朝。ずぶ濡れの先輩の言葉が忘れられない。『誰もいない学校が好き』 その気持ちは、私にも分かった。今日のように日直で朝早く来た時の静けさは、いろんなしがらみから解放されるようで、すごく落ち着く。多分、先輩の言葉に共感したんだろう。 でも今は。 自分でも説明できないような、暗い気持ちが渦巻いている。眞鍋さんに感じたものとも違う、先生が羨ましいような、妬ましいような、そんな感覚だ。 先輩が握った手は華奢で、女性の柔らかさがあっ